新たな自分でいっぱいにするよ

感想は自分のためのエンターテインメント

『この世界の片隅に』て、覚めた後の夢の話

映画『この世界の片隅に』を鑑賞いたしました。

丁寧につくられた良い映画だと思います。

皆さん既に素敵な感想を沢山書かれていますので、個人的にいちばん強く印象に残った最後の女の子について書きたいと思います。

それと、わたしはほぼ前知識なしで観に行ったのですが、映画鑑賞後に「しまった、これは絶対漫画を先に読むべきだった!」と思い即購入して読んだところ、映画で感じたこととまた違った感想を抱いたので、そのことについても書きます。

 

この世界のあちこちにいるわたし

結論から言うと、あの女の子のお母さんがすずなのだなと感じました。勿論、本当は別人です。でもあれは、子供が"出来ていた"すずであり、晴美ちゃんと"左手"を繋いでいたすずだと思いました。

 

「過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせんな」

 

あのお母さんは、すずの見ていた「覚めた夢」です。

もし子供が生まれていたら、もし晴美ちゃんと右手でなく左手を繋いでいたら……そういった「もしかしたら存在していたかもしれない」選択肢を選んだすず「達」です。

人生の分岐点は沢山あって、沢山選択をした先に今の現実を歩いている自分がいて、自分が選ばなかった以上その先は自分にとっては全部夢になる。

わたしは元々「胡蝶の夢」が好きなので、この考え方がとても好きでした。

この世界の片隅に』は全編的にこの「覚めた夢」がテーマとして根底にあって、どんな道でも自分で選んで来た現実である以上頑張って戦って生きていかなきゃいけない、というのがわたしの感じたことです。

本編でもいくつか選択については言及されてます。晴美ちゃんのこともだし、終盤広島に帰るか呉に残るかを選ぶところとか、水原さんのところとか。

 

ただ、周作とすずの出会いって、すずからすると「おとぎ話」だったじゃないですか。最後すずが周作に「ずっと一緒にいて」と言う場面でもあの化け物が出てきます。

あれによってあの物語そのものが虚構性を持つというか、「そもそもあれは最初から最後まで夢の中の出来事だったのではないか?」と思えてくる。

そうするとテーマ(だとわたしが思っている)の「現実を生きていかなきゃいけない」と合わなくなってしまいます。うーん。解釈に整合性がない。ここちゃんと一本筋の通った考察が聞きたいです……私の頭だとちょっともう思いつかない……賢い人よろしくお願いします……。

 

もしかして原作だと他にもこれに関する描写があるかな?というのもあり急いで原作を読んだのですが、それによりまた違った感想を抱いたので以下に書きます。

 

「代用品」のこと

原作を読んで思ったのが、映画とアプローチが「逆」だということです。

原作のキーパーソンとして「白木リン」さんが出てきます。

リンさんについて詳しいことはまあ原作読んでもらえば分かるんですけど、周作さんと良い仲だったんじゃないか?というような描写がところどころにあります。

映画ではすずのいる道があって、「すずがいたかもしれない」他の道が示されているんですけど、原作では逆に、すずの道と、リンさんという「すずの道にいたかもしれない」人に焦点が当たっているという印象でした。

自分の道にいたかもしれない人がいて、今この道を自分が歩いていてもいいのか悩んで、ここが自分の居場所だと肯定するというのが原作の重要な部分だと思います。そういう意味で映画とは逆だなと。

 

原作の女の子のお母さんに関しては、映画の知識があったせいもあるかもしれないけれど、映画の時ほど明確に「すずだ!」とは思わなかったですね。

あと化け物のエピソードについても、映画ほどには虚構性を感じずに、ただの物語上のエッセンスのような印象を受けました。原作だとすずの「お話」として他人に語り聞かせているという形を取っているので、虚構性が強調されて感じたのかもしれません。

以上が原作と映画との違いで興味深い点でした。

 

 

映画鑑賞後、「原作を読んでから映画を観ていたらきっとものすごく映画のクオリティに感激しただろうに」と悔しくて悔しくて仕方がなかったのですが、実際原作を読んでみると映画でリンさんの存在が希薄になったことが残念でならなくなっていただろうなと思ったので結局原作と映画どちらが先が良かったかはよく分かりませんでしたね……。

取り敢えず、もう一度映画を観たくはなりました。あとパンフレットが欲しいです。

本当に丁寧に作られた良い作品なのでもっと上映館が増えて多くの人が観たらいいなと思います。

「すごいものを見た」(テニミュ3rd氷帝千秋楽・手塚跡部戦に寄せて)

2016年9月25日、「ミュージカル『テニスの王子様』3rdシーズン 氷帝公演」千秋楽をライブビューイングで鑑賞した。

鑑賞後、「すごいものを見てしまった!」という気持ちでいっぱいになった。

 

何が起こったのか?

劇中のシングルス1 手塚対跡部戦で、手塚国光役の財木琢磨が流血するというアクシデントがあった。流血が白いユニフォームの胸から腹までを大きく染めて、一瞬「このシーンは血糊を使うんだったっけ?」と考え込んでしまった(テニミュでは他公演で血糊を使う演出が存在します)。それくらいたくさん血が流れていた。

「違う、あれは本物の血だ」と認識した後も血は点々と流れ続けた。場面はちょうど跡部が手塚の怪我を見抜き追いつめるシーンで、手塚は自分の腕を犠牲にしても試合を続けてチームの勝利を優先させる。流血を顧みず演技を続ける財木の姿が、手塚に重なった。重ねて見た。

 

手塚を心配する部員が手塚に声をかけて、手塚は「来るな!」と叫ぶ。

繰り返し演じられてきたはずのこのシーンに、ピリピリとどうしようもない緊迫感があった。部員役の皆は財木の怪我を心配したように思えたし、「来るな!」という言葉は流血をおして芝居を続ける財木本人の叫びのように感じられて仕方がなかった。あの瞬間私たちは、財木琢磨の演技を見る観客でありながら、同時に手塚国光の試合を見守る観客でもあった。虚構の舞台に、感情は本物だった。少なくともそう感じられた。財木の怪我が、舞台と現実をリンクさせてくれた。握りしめた手が震えた。

 

何を見たのか?

あの瞬間財木の覚悟と手塚の覚悟を重ねた、それは観客のエゴだと思う。あれは制作物としてはただのハプニングだった。でもやっぱりどうしようもなく本物だったし、私たちにとっては限りなく理想で幻想で現実だった。

私たちは自分の見たいものを見ていた。虚構を現実だと感じただけ、そう感じたかっただけ、勝手に理想を投影しただけ。ただ、舞台というものの目指すところはそこだと思う。あの舞台上で起こる虚構を役者の手で観客に「現実」だと感じさせることが舞台という表現手段の目指す理想の一つなのだと。そういう意味では、今日のこの公演は舞台というエンタテイメントの目指す境地の一つを、間違いなく体現していた。

 

手塚の覚悟と財木の覚悟、手塚を心配する気持ちと財木を心配する気持ち、舞台を心配する気持ちと試合を心配する気持ち、そういう虚構と現実が交ざりあって自分がどこにいたのか分からなかった。あの瞬間舞台を観る私がいて、試合を観戦する私がいた、どちらも確かに本物だった。

あの瞬間の「私たち」は、舞台を観る観客であり、試合を見る青学生であり、大石副部長であり、跡部景吾であり、越前リョーマでもあった。全部の気持ちを理解できた。大石の「もうやめろ!」という気持ち、跡部の「貴様がこんなに熱い男だったとは」という気持ち、越前の「青学の柱を託された」という気持ち、全部全部あの瞬間に理解出来た(と思った)。舞台を観る観客である「私たち」は、大石が、跡部が、リョーマが見ている試合を観ていた。一緒のものを観た。あの瞬間確かに私たちは同じものを観た。これは観客のエゴだけど、でも絶対にそうだった。

続く越前対日吉戦でも、試合の勝利を願いながら手塚のことを心配する自分がいて、あの気持ちは青学レギュラー陣を含む「試合を観戦する観客」の気持ちだった。手塚が、財木が、決死の覚悟で繋いでくれた試合だからこそ、あの場にいた「私たち」はリョーマに対し「勝てるだろうか、勝ってほしい、どうしても勝ってくれ」と祈った。あの感情は間違いなく本物だった。私たちは「あの場」にいて、「あの試合」を観ていた。

 

舞台は誰のものか?

やはり舞台というのは虚構なんだよなとも思う。虚構を現実と信じ込ませたら「勝ち」だ。そして、今日観たものは観客としては「すごい」と思ったけど、手法としては多分失敗のはずだ。あれはただのアクシデントで、あってはならないことで、観客が勝手にドラマ性を感じて感動しただけだ。だって原作では手塚くんはあの瞬間に怪我をしないし血を流さない。台本の上で成り立つ原作ありきの舞台では間違いなく失敗だった。でもやっぱり鑑賞した側としては、あの時の感情は紛れもなく真実だったと言いたい。

作り手から見ると失敗だった。でも目指すものはそこだというのは間違いないはず。「大丈夫なのか」「そこまでやるのか」「なんて覚悟だ」「あの思いを繋いでくれ」、観客に心からそう思わせることが舞台というエンターテイメントの目指すところで、そういう意味では今日の結果は間違いなく「成功」していた。私たちはすごいものを見た。

 

何故舞台を観るのか?

今日の感情は、あれを生で見られたということが必要条件だったと思う。伝聞で「そういうことがあった」と聞くのでは駄目、後に映像で「こういうことがあったんだ」と知るのでも駄目。あの感情を味わうには間違いなくあの瞬間に立ち会う必要があった。後から知るのでは単なるアクシデントだけど、あの瞬間を共有した人間にだけは確かな現実だった。

また、同時に、千秋楽だからこそだとも思った。もし今日が「最後」じゃなかったら、観客も「明日の公演は大丈夫かな」と心の片隅で考えてしまったと思う。あれが最後だと皆が知っていて、「最後なのに」「もう次がないのに」という気持ちが、原作の「一度きりの試合」を見守る気持ちとリンクした。

それって、映画でもドラマでもコンサートでもない、舞台だったからこそ味わえたもの、舞台だったからこそ表現しえたものだと思う。キャラクターがいて、役者がいて、その目の前に観客がいるから観られたものだった。それは、「何故我々は舞台を観るのか?」という問いに対する答えでもある。ドラマでも映画でもなく舞台を観る、あの一瞬のためにお金を払う、そういう行為に対する明確な答えだった。舞台は生き物だという言葉の体現の一つを見た。

 

テニミュの持つ虚構性

テニミュのような舞台だから味わえた感情だよねという話を観劇後に友人とした。友人は宝塚が好きなのだけど、宝塚で今日のようなことが起こるのは有り得ないし許されないと言っていた。テニミュのようにアドリブが組み込まれている舞台だから「すごいもの」になったのだと。

テニミュは元々メタ的なものの見方を前提として作られている。ギャグパートもあるし、日替わりにもメタ的なネタを入れることがある。挨拶でも「〇〇役の××です」と言う。制作側も鑑賞側も、「演じる役者と演じられる役」どちらも存在することを前提としている。もしこれが夢の国のように「中の人はいません」という文化だったら、今日起こったことは名実ともに「失敗」になってしまっていたはずだ。

私たちが今日味わえた感情は、テニミュだからこそ味わえた。

 

そもそも財木が怪我をしたのは、『一騎打ち』において跡部役の三浦のラケットが額を掠めたことが原因らしいけれど、それも三浦が「跡部」として財木の「手塚」に向かっていく気持ちがあったからこそだし、「手塚」が「跡部」の気持ちを真正面から受け止めたからこそだと思う。なるべくしてなった、とまで言ってしまうのは違うかもしれないが(そもそもあれは「失敗」なので)、でも役者が本気で虚構を現実にしようとしたからこそ、あの時あの瞬間、虚構と現実がリンクして全てが溶け合った。

 

本当に陳腐な言い方になってしまって恥ずかしいのだけど、私たちが見たのは、舞台というものが魅せた一つの「奇跡」だった。私は今後舞台を観る時、絶対に今夜の経験ありきで観るはずだ。今日のあの瞬間にあの舞台を観られたということは、今後私が舞台を観続けるだろう上で非常に得がたい重要な経験だったと思う。あの瞬間に立ち会えた幸福に感謝します。私は、すごいものを見た。